2021年3月11日木曜日

3.11

 東日本大震災が起きる20分前の午後2時30分、僕は仙台に着いた。大学受験のためではあったが、貯金をはたいて一人で旅するワクワク感に浸っていた。横浜への帰りには開通したばかりのはやぶさを予約し、それを楽しみに取っていた。


震災の経験を書き残すことを直後から考え続けていたが、そのまま文字に起こせず月日が経ってしまった。10年というタイミングが最後の機会だと思い、ここに一気に書き起こした。記憶を基にしているため、正しくない箇所や偏りが多々あると思う。


自宅では東大受験を大義名分に仮面浪人となっていたが、結局のところは寝てばかりの引きこもりだった。家族と顔を合わせないよう、一人で食事をしてすぐ部屋に戻り、風呂もこっそり入ってまた寝る。期日が近づいてくると、首を吊るマネをして現実逃避したりもした。そんな日々も終わりが見えて久々の遠出ということもあり、開放感に包まれながら、駅前のペデストリアンデッキを渡った。

背中のリュックには書類や勉強道具、手のトートバッグには替えの下着とデジカメが入っていた。3年間使ったドコモの青いガラケーは、新幹線でツイッターばかり開いていたからか、到着後すぐに電池が切れてしまった。とりあえずホテルを探そうと道に迷い始めた頃、地面が揺れ始めた。

ちょうど仙台では数日前にも地震が起きていたので、その余震かなと思った。しかし時間が経つと揺れが強くなり、その場で立ったまま動けない状態になった。向かいのガラス張りの建物(河北新報本社)が叩くような音を立てて騒がしく、近くではカップルが抱き合って堪えていた。1分以上は続き、地面がどこかへ移動し続けているように感じた。

揺れが収まると人が動き始めた。そのとき僕はまだ、最近の頻発地震の範囲だと思っていた。とりあえず目の前の中央郵便局から慌てたように飛び出してきた職員に声をかけ、ホテルの場所を尋ねた。

歩いてきた方向を引き返すようにホテルに向かった。信号は消え、その基盤が入っているであろうボックスからは煙が出ていた。ローソン店頭のサイレンが回転し、店内は暗くなっていた。

ホテルにはすぐ着いた。階段を上がってチェックインし部屋に向かうと、廊下でアジア系外国人の従業員たちがバタバタしていた。部屋の中では小さい冷蔵庫が飛び出し、壁掛けの絵が少しずれ落ちていた。勉強用にスタンドデスクを借りていたが、停電で点かなかった。フロントから電話があり(なぜ動いたんだろう)、ロビーなら非常用電源で稼働しているから来ないかと提案され、下りることにした。

フロント前のロビーにはソファーがいくつかあって、その一つに座って過去問を解いていた。大体20人くらい居たが、近くには男性二人組がいて強面な方が「社長」と呼ばれていた。なんとなく、別世界で生きている人たちだと感じた。余震で揺れたときに若い女性が叫んだが、社長はうるせえなと小さく舌打ちしていた。何度も揺れるので、ずっと船に揺られているような気分になった。

フロントに置かれたラジオからNHKアナウンサーの声がずっと流れていた。大津波警報が発令されたらしく、しばらくは対象地域を繰り返し読み上げていた。それから地震被害の報道で、商業施設の天井が崩れて親子二人が亡くなったとか聞いて痛ましく感じた。夕方に差し掛かると津波被害について報道し始めた。はじめ3mと言っていたのが10m以上になったり、町が壊滅状態と表現されたり等、どれが本当かも分からなかったし現実味が無かった。それに被害者数の話がほぼ出てこなかった。夜8時ごろだったか、海岸付近で200人ほどの遺体が見つかったとアナウンサーが読み上げた。急な数字にかなり驚いたが、それはあまり繰り返されなかった。

明るいうちに社長がもう一人を使い走りに出して、ローソンで食糧を買ってきた。そのうちおにぎり2個くらいを僕にくれた。ホテルからも非常食の乾パンが配られた気がする。他にやることもないので勉強を続けていた。試験がどうなるか見当もつかず、あまり考えようともしなかった。夜になると非常電源も切れて暗くなった。ろうそくが灯されたが、過去問を読むには厳しい明るさだった。仙台の夜はコート1枚だとかなり寒く、ソファの上で震えながら夜を明かした。

朝方に新聞の号外が届いた。見たことのない大きさの表題と、作業服を着た菅首相の写真があった。予算が即時成立したと書いてあって、非常事態であることを改めて認識した。周囲ではひどいものだと写真に対して言っていたが、なぜかどんな写真だったかは覚えていない。

起きたときには社長はいなくなっていた。フロントには宿泊手続きをする客がちらほら訪れていて、そのときになって自分の滞在場所が保証されていないことに気がついた。連泊はできず、近くの避難所である小学校を案内された。

小学校は各教室から机などを出して開放していたが、すでに人で混み合っていた。2階の教室にスペースを見つけてそこに座った。周りの人たちは毛布を持っていたので探したが、すでに切らしているようだった。とりあえずそこの床で過去問を一度解いたが、自己採点で合格ラインの半分くらいだった。そうしていると大学職員の人から声をかけられた。試験は延期になったと言っていて、やはりそうかと思った。下見もしなかったので、大学への行き方すら知らなかった。

昼過ぎになると電気が復旧した。電源車が来るとか聞いていて、中心部だし優先的に対応したんだろうと思った。空いているコンセントで携帯を充電すると一日ぶりに起動した。同時に、大量の安否確認メールが届いた。親と親戚、高校の同級生からだった。「死んだと思った」とあとで言われたとき、自分の存在がエンタメ化したような気がしてしまった。

通信は悪く、メール返信はまともにできなかった。安否確認の掲示板を使った。公衆電話が開放されたと聞いて、駅のほうまで向かった。メールを使えない祖母に架電して無事を短く知らせ、駅の様子を見にいった。ペデストリアンデッキの階段や建物1階の入り口は封鎖され、駅員が応対していた。復旧の目処は分からないが、かなり先になるだろうと言われた。帰りの新幹線代は返金になることも聞いた。ここでようやく、バッグにデジカメが入っていたことを思い出して入り口の写真を撮った。

テレビでは、津波を受けた街の状況や福島の原発が映し出され、合間ごとにACのCMが流れていた。他の人が言うほどにはCMは気にならず、むしろ休息になった。水素爆発しても、正常性バイアスに委ねてあまり気にしなかった。

食糧の配給や仮設トイレは校庭にあった。山岳部にいたし多少不便でも問題ないと思っていたが、フローリングの上で過ごす夜は前日より寒く、この日もあまり眠れなかった。

三日目になると、ダイエーが開くという話がどこからか聞こえ、屋外の行列に並んだ。2時間ほどで中に入り、さらにレジまで1時間ほど並んだ。一つ後ろの男性と話してみたら青森県の職員だった。雑談のつもりで事情を話すとお金を渡そうとしてくれた。手持ちは現金少しとデビットカードもあったので辞退したが、困ったら連絡をと名刺を受け取った。いちごスペシャルなどの菓子パンをいくつか買った。店からは釣り銭を出さずに回転させているのか、「キャッシュアウェーです」のような呼びかけがされていた。

食糧も毛布も手に入って、四日目はだいぶ体調が落ち着いた。親と連絡をとる中で、山形と新潟を経由して帰ることになった。目処が立ったので、勉強のために持っていたブドウ糖を、ずっと咳をしている人に偽善者ぶって押し付けて出発した。駅前からバスが出ていて、それで山形駅まで行くことができた。先方には親の知人がいて、そこの家に泊めてもらった。

五日目はそこの車で新潟駅まで送ってもらえた。構内は人が少なかったがコンセントに延長ケーブルがつながっていて、そこで携帯を充電した。新幹線まで時間があり、駅前のビックカメラを眺めたり、反対側の商店街を歩いたり、パチンコ屋にただ入ってみたりした。

新幹線で東京まで向かった。その窓からは、特に変哲のない家々が眺められた。それが却って津波に被災した街のことを思い出させられた。天罰が下るとしたら自堕落に生きてきた自分なのに、なぜ理不尽に人が死ぬのだろうと思うと涙が出た。

自宅の最寄り駅まで着くと、階段の下では募金箱を持った人がひとりいた。なにかの使命感に駆られ、千円札を一枚そこに入れた。

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